サマー・モノクローム

構図がどうとか作画意図がどうとかが満面のドヤ顔で説明されてるかのような写真(ていうか今はシェアサイトの類での写真閲覧が多いので、実際に作者が言葉やタイトルでそういう見どころドヤ説明をモロに添えちゃってたり、平気でする・・・)とかまぁそんなような写真が、だいたい幼い印象を与えるしそんなに魅力的でもない・・・っていうのはもうある一線を越えた写真家ならばみんな共通認識だと思う。

あなたがもしその構図の妙に悦に入っているならば、そんなのは占いとかスプーン曲げの類だよ、といいたい。あなたが意図したそれは他人には絶対に伝わっていないし、あなたが他者の写真に感じるそれは作者はそんなこと絶対に意図も操作もしていない。

万一その共通理解が成立する瞬間があるのだとすればそれは写真のようで写真ではない、なんか模擬写真遊びみたいなレベルの例題の中で、なんだと思う。雑誌の裏表紙とかでよく見ますよね?AとBではどちらが美しい構図でしょう?みたいなやつ。あれと同次元のはなし。


構図とかなんてほんとにどうでもいい。ていうか何が写っているのか?さえどうでもいいと最近は思う。ましてや、見た人間がどんな印象、感想を持つか?そんなことがほんとにいちばんどうでもいい。

悲しみ?喜び?希望?絶望?

少なくとも俺はそんなの込めようとしてシャッターなんか絶対に押さない。

僕がシャッターを押す理由はただひとつ。

写真が撮りたいんですよ。



いきなり脱線のような核心から入ってしまいましたが、写真を撮りたいならばそこで大事な要素は僅か片手の指でも数え切れておつりがくるんじゃないか?というほどシンプルな予感は、もうしている。


という訳で僕は今この夏の太陽光線の下で写真を撮る体験にすっかり骨抜きにされてしまっている。

許されるならばこう言いたいよ。夏よ、終わるな!











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